「ふつうそんなことしないですよね?!」
っていうの、仲間内で「そんなこと、ある?!」「ふつうあれへんよな!!」ってぐだぐだ言ってるうちはいいんだけれど、
あまりに「ふつう」を決めつけすぎるということは危険やな、と思います。
というか、私にとってはそれは
自分がやるのも危険だし、
そういう考え方の人のそばにいるのも自分が危険。
いろんな人がいて、いろんな考え方がある、という、なんてことないように思えることを、実は受け入れていないという人は、けっこういるものです。
自分にとっての「ふつう」だけが、ただ一つの「正しい」ことだと思っている。
そしてそれ以外の考え方を持っている人のことは、否定する。(価値観に関わることなので人格そのものを否定しようとする)
やりかたとして「叩く」という手法をとる。
もしくは黙らせようとする。
以前はそういう人に遭遇すると叩かれてつらい気持ちになったり、自分を責めたり、わかってもらおうとしたりしたものですが、最近はもう、
「にこにこしながら後ずさりする」
という感じになっています。
そういう人とのつきあいに時間をエネルギーを費やすのは、自分の人生のムダだからです。
自分を広げていくことをどんどんやっていきたい時期には、そういう人との時間も経験として大事でしたが、今となってはもう、そういう広げ方をするよりは、今つきあっている人や場所、場面を大事にするために時間を割きたいと思っています。
私は高校生に接する機会を多く持ってきましたが、その時に気をつけてきたことは、反対の方向から、
「君の『ふつう』って、決してそれだけじゃないよ。他にもいろんな考え方や見かたがあるよ」
ということを伝える、ということです。
学校というところはただでも「ものさし」が一つしかなく、世界が狭くなりがちなので、別の視点を示すことが、生徒や学生といわれる立場の人たちには息抜きになったり、力になったりすると私は考えているからです。
少し話がそれたかな。
私はここで鍼灸院をやっていて、また寺子屋や外部のワークショップで講師をさせてもらって、いろんな社会、世界で生きている人に出会うことができて、本当に楽しいなあ、と思っています。
このライフスタイルで、自分と違う意見を持っている人のことを否定したりシャットダウンしたり「ふつうじゃない」と切り捨ててしまう考え方だったら、疲れるだろうなあ…と、意味のない想像をしてみたり。
いま書いていて気がついたことですが、
「ふつう」をひとつに決めてしまっておいた方が楽な場面や時期もあるのあるのかもしれませんね。
少なくとも今私はその世界にはいないけれど。
高校生のとき、倫理の授業で「止揚=アウフヘーベン」という言葉に出会ったとき、すごい興奮がありました。
違う考えが出会ったときに、どちらかが打ち負かしてもう一方をなかったことにするのではなくて、そこからまた、新しいものが生まれてくるということ。
そしてその新しいものはきっと、もとあった「違うもの」よりもより高みにあるということ。
せっかく「自分と違うもの」に出会えるんだったら、「ふつう」をかたく守ることに固執しないで、新しい何かが生まれるのかも、って楽しんでいきたいです。
それが私の「ふつう」なんですね。