息子氏は2歳の時に同居していた祖父が家で亡くなり(正確には家で呼吸が止まって、私がCPRして病院で蘇生して亡くなった)、4歳の時には一緒に旅行にも行った私の友人が亡くなったので、
「人が死ぬ」
ということに、6歳児にしては鮮明な印象があるように思う。
時々、だいたいは疲れている時やちょっと具合を崩しそうな時に、寝る前に
「かあちゃんがしぬときのことをかんがえるとこわいんだよ」
と言って泣いたりしている。
自分が大人になる、ということまでそれにつなげてしまうようなのでそれは大変そうだけど、
私はできるだけ長生きするように気をつける、元気でいられるようなことは頑張るし、車に気をつけるようにする、と何度も伝えて、
生きてる今を楽しくいようね、と言ってとりあえず長生きできるように早く寝よう、と言って寝ている。
私は鍼灸院で、鍼灸だけでなくいろんな方向から、「できるだけ元気にいられる方法」をその人に合わせて話したりもしているけど、元気は多少は選べても(多少は)、生きる死ぬでは選べないこともたくさんある。
私は学生の頃、体育学部の若者としてわかりやすく浅はかに、頑張ったらある程度元気でいられる、と思っていた。
だけどまず大学の友人に、体が強くなくて、自分のやりたいことの量をまず体力の残りと相談して決めるという人があって、その生活ぶりを見て、誰もが頑張ればできる、というのは間違ってるということにやっと気づいた。
それからもスポーツ業界に長くいたから、多くは元気な人たちと接していたけれど、
30代の中頃には自分が働きすぎて体調を崩した。
その後、37歳と39歳の時に初期流産があり、決定的に「頑張ってもどうにもならないこと」を体験した。
それから父と母がそれぞれ、原因不明の、進行性で根治が今現在はできない病気にかかって、少しずつ少しずつ変化していくのを見てきた。
その2つのことを体験するまで、傲慢にも健康はコントロールできるとまだどこかで思っていた。
3人目として妊娠し、初めて生まれてきた息子氏は幸運にも有り余るほどに元気で快活だけど、本当にただの幸運だと思う。
こうやって育てたから元気です、みたいなこと、全然言えない。あの人が元気。
今年、春に人間ドックを受けたらある数値が引っかかって、近所の内科、そこから大学病院へ紹介されて検査、診察の結果、免疫系が関係する消化器の病気で、ざっくり言うと
「原因不明で、一生、食後に薬を飲んでいれば特に生活に制限もなく、天寿をまっとうする人が多い。ただし悪化すると難病で、悪化の要因は不明」
ということだった。
一瞬、当たり前にショックを受けたけど、数日で「そっかあ」と受け入れて、毎日毎日「危ない!忘れてた!」を繰り返しながら薬を飲んで普通に生活している。
またしても、「選べないやつ」がやってきたんだな、と思う。
選べないやつの中では、天寿をまっとうする可能性が高いというので、よかった。
(天寿をまっとうする、という表現は医師会だかなんだかのサイトに書いてあった)
割と健康に気を遣っている方だし、そういうことを人にも勧めている仕事だしそういう人だけど、
努力して、節制さえすれば健康でいられる、とかは今は全然思わない。
そういうの関係なく、こうして選べない「状態」がやってくることもあるし、そういうの関係なく元気な人もいる。
生まれて生きてて選んで自分で元気でいられるって、本当にありがたいことだし、けっこう、儚い。
環境…って、お天気とかの意味でも生まれ育ちとかの意味でも、自分でどうにかできないことが多い。
だからこそ、選んでできることは頑張りたいし、車には気をつけたいと思う。
選んで頑張れるということ自体、幸運だし。