吉田沙保里選手の涙を見ていて、もう、こっちも泣けて泣けてしょうがないわけですよ。
これ打っててもまた泣いてるわけですよ。
いつから涙もろいかってもうそれはこどもの頃からで、幼稚園の頃祖父の家に遊びに行って、帰り道の車に乗るなり、
「もう会えないかもしれない…」
と毎回泣いてたりしてたわけです。
※それについては、祖父が、幼稚園児である私に「おじいちゃんはあと5年で死ぬ!」と言い切ったという前段があるが。そしてそれから20年くらい生きてくれたが。
小学3年生の夏休みに、夏休み40日で42冊の本を読みました。
多分学校の宿題で記録をしたんだと思いますが、はっきり42という数字を覚えています。
今でもそうですが、ノンフィクションよりもフィクションを好んで、こどもの頃から物語で自分の中を満たしてきたところがあります。
実生活では高校時代くらいまで自分が女性であるということを受け入れられずに、スカートもはかない、過剰に男らしく毎日を戦う、みたいな生活をしていたくせに、気持ちの中には女子成分が、物語によってぱんぱんに充満していました。
それでバランスがおかしくて暴走的に勉強したり運動したり働いたり。
フィクション、小説をたくさん読むことは、いろんな人の人生や考え方を自分の中に入れることで、だからいっとき、それが自分の人生になっていて、自分の記憶の回路を作っている感じがします。
それに、1回しかできない限られた自分の人生経験が混ざって、自分になっている。
本でそういう経験をしていると、人に会って話をきくたびにも、同じようにその人の人生の一部を一瞬なぞって取り込むような気がします。
トレーナーとして、教員として、鍼灸師として、たくさんの人に会ってきたから、少しずつ、でもどんどん、自分の中に物語が増えてきました。
私は競技スポーツの、現場に長くいさせてもらったので、今朝の吉田沙保里選手を見ているときに、たとえば自分がこれまで行った合宿や試合や毎日の練習や、会ってきた選手たちの気持ちの記憶なんかから、勝手に吉田選手のこれまでの物語が、なんだか質感を持って迫ってきて、
そりゃあもう泣けて泣けてしょうがない。
この性質は、過剰すぎるというか、頭のなかにあぶくが多いというか、情緒的すぎるきらいはあって、実際自分を物語化しすぎるところがあったと思います。
ふわ~っとして、実体がなくて、感動的。
でもそれをしっかりコントロールして、地に足をつけて、形になっている、自分の目の前のことをしっかりやる、ということができた上でのこの「物語の多さ」で、私は人の話をきいて、手伝いをするという仕事をしていると思っています。
全く同じ、ではない、けど、少しでも似た景色を、この鍼灸院の中で一緒に思い描いて、考えます。
そしてまた、物語を増やします。
本を読む、という選択肢だけではないけれど、自分の中の「他の人の物語」が増えると、きっともっと想像力を持ってお互いに接することができるんじゃないでしょうか。
その上で、それを形にして行動していけたら、もっと良くなる。
吉田沙保里選手の物語はものすごく濃くて、負けてしまったことでまた強烈な色彩が入って、美しいものになってしまった。
しっかり味わって、また今日も仕事がんばる。