しつこいタイプというか、三つ子の魂百までというか、生まれ育った京都に帰ってきて、
「私全然変わってないやん」
と思うことがけっこうあります。
特に、好きなものについてです。
ここのところは「きもの」「裁縫」「観劇」「料理」などにそれは現れていて、着物をきて観劇に行こうと着付けを練習したり(本を見て我流)、チケットを取ったり、何かというとお祝いごとに裁縫をしたり(キルトでウェルカムボードなど)、料理をがんばったり、しています。
それともう一つは「からだのこと」であって、それはもうこうして仕事にしているので、好きとかそういうことではなくて自分の軸になっている、ということです。
例えば着付けの本や料理の本などは、最近新しく買うということはほとんどなくて、もうすでにずっと長いこと持ったまま、3度の引っ越しにも全部持ち運んだりしてきたものを、今やっと引っ張りだしてきて使っています。
着付けも料理も流行はあまりないので、全く問題ありません。
裁縫などは、裁縫箱に使っているこのお菓子の缶はいつから使っているんだろう…と思って裏返してみると、賞味期限が1997年。……1997年?!
ピンクッションも自作で、多分中学生か高校生の頃のものだと思います。
ずっとスポーツの現場に関わっていて、こういった好きなことというのに自分の体力と時間を回すことができていませんでした。
というのはわかりやすい言い訳で、その時には優先順位が低くて、私がグランドに立って、陽に当たることを選んできたということです。
その時その時で「もうちょっと裁縫とか、したいなあ」と思わなくもなかったけれど、「いまはそういう時期ではないんだな」と思うようにはなっていました。
「今日できることを明日やろうと思うな」「あしたやろう、は馬鹿野郎」などなど、この「今じゃない」ということを戒めるフレーズもありますが、今全部できる、やらなくてはならない、と思い込むというのはそれはそれで無理があることもある。
確かに事故や病気やその他いろいろなことで、急に「あした」「来年」が変わってしまうこともあります。
だから何もかもを先送りにするのはよくないけれど、全部「いま」に詰め込もうとして疲れてしまう、というのも、自分に負荷をかけすぎること。
だからこそ、いまの自分に集中して、よく見つめて、いまの自分には何が大事なのか、ということをよく見ていかなくては、と思います。
それは流されるのではなくて、言い訳をするのではなくて。
好きなことだしやりたいことだけど、今ではない、というふうに整理がついていたら、「その時」がきたらちゃんと、形を保って現れてくれる。
私の最近は結局、そういうことなんだといま感じています。
そして人は年をとって、経験を重ねて、力をつけていくから、寝かせておいた「その時」には、その力でより精密に、力強くそのことに取り組める。
たとえば高校生の時よりもお金ができてノムラテーラー(手芸店)で好きな布を買えたり。自分で家を借りて自分の台所ができたり。着物を教えてくれる友だちができたり。
同じことをずっと思っているようで、できるようになることが増えたり、思いが重なったりするとそれはより大きくて高いものになってくる。
上から見てると同じところをぐるぐる回っているようで、横から見るとどんどん高さが上がっている、螺旋階段のような。
そのことを読んだのはこの本でした。ずっと前だし、しばらく読んでいないけど鮮烈に覚えています。
図書館があいたら(いま蔵書点検でクローズ中)、また探してみようかな。